江戸時代には千住、草加、越谷に続く日光街道の四番目の宿場町として、また近代に入ると昭和初期まで米麦の集散地として栄えてきた春日部。
 過去には南北に走る古利根川がその舟運として、その後国道4号線が陸路でこの役を引き受け、さらに現在は東武伊勢崎線、野田線が交差し、交通の要路となっている春日部は県東部地域の中心都市である。
 まずは田村家本家①。土蔵造り二階建て。明治七(1874)年。通りに面し三軒、田村家が続くがこちらはその本家。江戸期創業で当代の晃佑氏は八代目。以前は米穀商を営んでいた。店は道路の拡幅によりセットバックをしており戦時中黒漆喰に塗り替えられたものを白漆喰に戻したという。店の二階は事務所として使われており床の間も設えられている。一階同様二階の豪壮な欅の梁には驚かされる。また二階の中央からは一階を覗ける吹き抜けがあったという。文庫蔵を左に、店を出ると中庭には賓客用の木造二階建ての和風住宅。二階からは裏の古利根川を見渡せ、大正期には渋沢栄一や伊藤博文も訪れている。裏庭には近衛師団演習の碑、明治期の築と思われる稲荷神社が美しい植栽と共にあり、庭の左側には蔵が三棟。裏の古利根川から直接荷揚げしていたという。
 その隣も田村家。こちらは明治二十二(1889)年。土蔵造り二階建て。当代は三代目。穀物商を営んでいたという。道路の拡幅にあいながらも店先を削るだけでセットバックせずにすみ旧状をとどめている。揚げ戸の跡も残り、土間のたたきも健在。裏に文庫蔵、穀倉を左に見ながら川に通じる構造はこの地域の町屋の典型である。
 その隣は田村荒物店②。こちらは明治八(1875)年で四代目。隣の田村家と建築平面は同じでこちらが先に建てられた。こちらも道路拡幅にあい、曳屋も余儀なくされ、文庫蔵の一番蔵から半分に縮めた二番蔵、取り壊された三番蔵、四、五番蔵まであった。現状の四、五番蔵は途中でつないだものと思われる。春日部駅前から公園橋まで真っ直ぐぬける駅前通。古利根川をわたる公園橋の彫刻、橋上のオブジェをバックにした交差点付近。グレーの瓦に白い漆喰の壁が映える田村荒物店の蔵の続く風景は、市内の広報絵はがき「春日部景観二十選」の表紙ともなりカメラをかまえるひとの姿を時折見かける。
 この駅前通をわたってビルをぬけると同じく右側に見えてくるのは丸八酒店③(表紙)
 当代は十一代目。初代は江戸以前にさかのぼるという。和風住宅の後ろに文庫蔵、酒蔵と続き、通路をはさみ、平行に外蔵、物置蔵がならぶ。表からうかがえる九代目の誕生を祝ってつくられたという明治二十四(1891)年築の外蔵と関東大震災後に建てられた木造二階の和風住宅をとらえた構図は美しい。ことに一階十畳、六畳、二階六畳ふた間の和風住宅は賓客用で、周囲に廊下を回した和ガラス戸の桟のデザイン等はモダンである。訪れた日の午後、植え込みのジンチョウゲの香りが甘く漂っていた。今回の地震でも被害を被り、縁先の灯籠が倒れたのは関東大震災以来だという。
 享保年間創業という屋根に鍾馗様(しょうきさま)の乗る永島庄兵衛商店④を右にさらに進む。
 真っ直ぐ正面には最勝院が見えるが、交差点にはこちらも被害を被ったはまじま美術館
 この交差点を左に折れると岩槻新道。現在の国道16号の前身である。
 少し進むとむくり屋根のみえる木造二階建ての永田家⑤
 さらに数軒先には道の両側には魅力的な建物が右に小沼印店⑥、道をはさんで左に大谷石の石蔵
 小沼印店二階部分の銅製の戸袋、軒下部分のデザインなどは面白い。
 さらにその数軒先にはトキタ種苗店⑦。木造二階建て。大正六年(1917)築と三代目の恒雄氏は語る。140から150㎡くらいはあろうか店内はかなり広く、二階は事務室に使用し、表の看板部分は改変しているが、以前は瓦屋根だったという。脇道から眺めれば下見板張りで、出入り口、屋根などは大正期のデザインと知れる。
 こうしたモダンな建物が生まれるほどこの通りは活気に満ちていたのである。
 広い真っ直ぐな道路が通り、ロビンソンデパートをはじめ、多くのビルが建ち並び、店は新しくなり、学生時代訪れたときの春日部のイメージはまったくといってよいほど変わってしまった。あの人臭い街並みが懐かしく思い出されてくるのだが。

(広報誌 スマイル通信 Vol.43 2011年3月発行)

表紙:丸八酒店
表紙:丸八酒店
田村本家①
田村本家①
田村荒物店②(表通り)
田村荒物店②(表通り)
田村荒物店②(中庭から)
田村荒物店②(中庭から)
丸八酒店③
丸八酒店③
永島庄兵衛商店④
永島庄兵衛商店④
永田家⑤
永田家⑤
小沼印店⑥
小沼印店⑥
トキタ種苗店⑦
トキタ種苗店⑦

 

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