最近の建築ブームを反映してか、埼玉県立近代美術館で実施している建築ツアーは定員の三、四倍と極めて評判がよいが、都内の近・現代建築ツアーを実施してから三年たち、足下の県内の近・現代建築にも眼を向けようと、その手始めに秩父をとりあげてみた。
 秩父を最初にとりあげたのは、県内で最も登録有形文化財件数の多い所だったからである。
 さて、よく知られている十二月三日の秩父夜祭りの土俗的とでもいうようなエネルギーからは重厚な民家を連想するのだが、ここではいささか異なる住宅を紹介しよう。
 秩父神社前の通り、江戸時代には荷を運ぶ馬が行き交ったという町の繁華街であった賑やかな番場町通り。この通りには秩父の繁栄を物語るような建築がたちならぶ。明治の典型的な医院建築、下見板張りの岩田医院片山医院②、また、昭和初期のモダンな小池煙草店をはじめとする商店建築など。そしてその格式を表門が示している夜祭りの中心となる秩父神社宮司の薗田家③。その薗田家の道を挟んで瀟洒な和洋折衷の住宅がある。表門と板塀に囲まれ、板塀越しには緑豊かな屋敷地が広がる登録有形文化財の宮前家住宅④(表紙)である。母屋は木造二階建て、桟瓦葺き屋根。昭和五年(1930)に建築されたものである。
 住宅作家として昭和初期から活躍した建築家山田醇(やまだじゅん、明治十七年(1884)~昭和四十四(1969))の設計である。
 こちらは、現在の当主、宮前洋一氏のご両親の結婚にあわせて建設されたのこと。結婚されたのが昭和六年(1931)であるからその前年に竣工されたことになる。世界恐慌におおわれていた時期、世の中は不況に晒されていた頃である。職人には日払いで支払いをしたために大変喜ばれたというが、そんな時期だったから建設費は比較的安くすんだのではないかというお話であった。
 間取りを見ると、中廊下を中央に南側は居室、北側は台所や浴室などの作業室、と極めて整然と構成されている。
先ず一階。
 ノッカーのついている玄関。正面から奥に中央を廊下がのびており、右側には応接室。この応接室にはこだわりを見せ、腰板を周囲にめぐらせ、重厚な雰囲気を漂わせ、山田のデザインによる応接セットを配す。その南側に隣接して書斎。中央に広い床の間付の和室。庭に面して洋室のセットをおいても憩えるような広くゆったりとした幅を持つ縁側。そしてその縁側を降りるとこれも広く藤棚付の大きなベランダ。奥には食堂として使われた部屋。建築当初とは用途の変更はあるものの、ほぼ当初の状態である。
 二階は階段を境に畳敷きの部屋二間、それに物置。陸軍の演習時、将校が寄宿した際に随員とともに利用されたという。中央の和室の南側は一階同様広く縁側がとられている。なお二つの部屋からは相互にトイレには直接行けるように工夫されている。
 二階に広くとられた南側の窓。外部からは印象的な表情のうかがえる東西の比較的高い位置にとられた窓。そして北側にも窓。光りを多く摂りいれようとした意図がうかがえる。
 芝生の庭の方形の池も設計の段階で考えられたものという。
 いずれも昭和初期につくられたものとは思えぬほどモダンで機能的につくられている。
 人間の基本的な生活は時も経てもさほど変わらないということだろうか。ところでこうした設計をした建築家山田醇について触れておこう。
 山田醇は江戸城の修理の際の木材伐採を手がけた秩父郡皆野町の木材業を営んでいた家に明治十七年(1884)に生まれている。その後熊谷中学、学習院を経、東京帝国大学造船学科に進学している。翌年建築学科に転科、明治四十五年(1912)に卒業し、明治建築界の大御所である辰野金吾が中心となっていた建築事務所、辰野・葛西建築事務所に入所している。その後、川崎造船所の川崎男爵の知遇を得て神戸で独立。大正十年外遊し、翌十一年帰国、事務所を東京に移し、大正十三年(1924)渋谷区松涛に山田醇建築事務所を開設している。
 建築事務所の有望な所員であった山田が住宅に眼を向けたきっかけは生後間もない長女の病気であったという。看護にあたった医師の話によると借家の通風・換気が悪く、室内に湿度や熱気がこもってしまうのが病気の主因だというのである。以来、山田は住宅作家に転向し、日本の気候と風土にもとづく住宅研究をおこない、多くの著作を残していく。その中で《健康的住宅》を提唱し、 一、 通風のよい間取り
二、 日光をとり入れられる窓の設置
三、 部屋の交通の便宜性 を住宅の根幹に据えて行く。
 さらに山田の作品の外観の特徴。それは大正十年に英国を中心に遊学した際、師の辰野金吾も着目したイギリスのハーフティンバー様式に日本建築の真壁構造との類似性を見、帰国後、伝統を意識しながら新しい木造建築を展開した点で、それは真壁+漆喰+羽目板+瓦という山田独特の様式に結びついていく。
 「確かに通風がよく、機能的であるし快適です。でも女中部屋があっても女中を雇えるほど優雅な生活はしてませんが。」という奥様の話しであった。宮前家が地元の秩父セメントに関連したところから山田醇に依頼したようであるが、いずれにせよ、日本を代表する住宅作家山田醇の建築が彼の生地皆野にほど近い秩父の中心で、今も往時と変わりなく使われていることに秩父の持っている文化の奥の深さを感じさせるのである。

(広報誌 スマイル通信 Vol.22 2005年7月発行)

表紙:宮前家住宅室内
表紙:宮前家住宅室内
岩田医院①
岩田医院①
片山医院②
片山医院②
薗田家③住宅
薗田家③住宅
薗田家③住宅
薗田家③住宅
宮前家住宅④
宮前家住宅④
宮前家住宅④
宮前家住宅④
宮前家住宅④
宮前家住宅④